結婚と家族のこれから 共働き社会の限界
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発行年 : 2016 年
読書終了 : 2019-11-16
感想
内容メモ
はじめに
本書は結婚や家族についての「教養本」
1 章 : 家族はどこからきたか
1 節 : 家族についての話題三つ
日本の古代社会では、下記のような結婚や家族 (のようなもの) のあり方が一般的だったと考えられている (貴族でも庶民でも) 男女がともに相手を好きになって、合意の上で親密な仲になる
うまくいかなければ別れる
女性でも積極的に男性に求愛する
男女ともに財産の所有権を持つ
家父長制的な家族が伝統的だと思っている人もいるが、実際には、父系の直系家族は、日本では 10 世紀くらいから徐々に浸透していった制度 2 節 : 母・子と、それを守る存在
人間にとって 「食べていくこと」、すなわち経済的な生活基盤が一番大事で、それが確保されれば後のことはある程度自由
結婚や家族についても、経済的な生活基盤に応じてある程度決まる
地域共同体なり国家なり、個人を支える広い仕組みがあれば、個人、特に女性は自由に他者と関係を持ち、子どもを作ることができる
しかし、「家」 の成立から近代初期まで続く 「家族」 は、どちらかといえば女性を男性に従属させ、子どもを作るという営みをそこに縛り付けるための仕組みに近かった その代わりに、男性は家族を守る責任を負う
家族を超えるより広いサポート体制があれば、子育ての場所に男性が (常に) いる必要は小さくなる
男性にとっても、家族を経済的に養うという責任を一人で背負うことがなくなる
この場合、家族、少なくとも男女がペアになったような家族 (最近の家族社会学では 「ジェンダー家族」 という) は不要になる 母・子と、それをとりまく社会からのサポートというあり方では、子どもを産むという観点で女性が抱えている様々な問題は、もはや家族、特にジェンダー家族によって解決される必要がない、ということになる
子どもを生み、育てる女性が頼るのは、特定の男性、つまり夫ではなく、社会全体でもよい、という主張
3 節 : 「家」 の成立
古代社会の自由で平等な結婚と人間関係の形は、徐々に男性中心に再編されていく
共同体から 「父・母・子」 というまとまり (家族) へ
きっかけはいろいろと考えられるが、日本では律令制 (大宝律令) の影響があったと考えられる 日本の律令は当時の中国の律令を模範に作られたもの : 家長 (親かつ男性) が女性や子どもを管理するという思想
家長が家族を管理し、田畑等を管理し (建前上の所有権は天皇)、税を納める
律令制の制定から実際に家父長制的な文化になるまでは時間がかかったと考えられる
どう広まったのか? → 武家の 「食べていくこと」 からの考察
武家が食べていくには、仕えている人の戦で功績をあげて、土地を分けてもらってそこで農作をする
武家の主君は、家臣に与える土地を手に入れるために戦争する
戦での功績が重要であり、戦は男の仕事であった → 男が子を残す必要
江戸時代には戦はなくなったが、食べていくために官職に就くことが重要に 基本的には家が継いでいくものなので、やはり血筋が重要に
このような男性官職の世襲と家父長制の結託は平安時代の貴族層から見られていたよう
このような 「経済生産の現場」 を離れたところでの男性的な政治支配が確立すると、家族もそれに応じて家父長制・男性支配的になり、女性には間違いなく夫の子どもを作ることが要請され、姦通が厳しく罰せられるようになり 農家や商家は?
農業生産の論理と家父長制はそれほど相性が良いわけではないので、庶民層での 「家」 の成立時期についてははっきりわかっていない
基本的な経済原理では、あまり血統重視や男性支配・家父長制といって家族の仕組みにはなりづらい
そのため、現代では、徐々に血統を重視しない結婚や家族の在り方に戻ってきている
その意味で、家父長制は支配層の男性や家族の中での男性が既得権を維持するために無理やりねじ込んだ不自然な仕組みではないか 生産力の論理を離れ、政治原理が幅を利かす階層ほど、女性が抑圧されている、ということかもしれません。
4 節 : 「家」 からの離脱
江戸時代の (特に武家の) 結婚や家族のあり方から、現代の結婚や家族のあり方になるまでにはいくつかの段階があった
最初の段階 : 明治時代から第二次世界大戦終戦まで
明治政府が最初に公布した民法はある程度個人主義的なものだった (フランス人法学者ボアソナードが起草)
その後、家制度を基軸とした家父長制の色合いが濃い明治民法が施行された 明治政府は、天皇を頂点とした支配体制を強化するという政治的な目的で、家制度を上から押し付けていたのです。天皇は、この家父長制の頂点に立つ存在でした。
現代では家長が握っている経済力というのはピンとこないかもしれないが、当時は自営業が多く、家が経済の拠点だった
家に縛られている部分が多く、自由になりたいと思う人も多かった
家から離れる一般的な手段は、自分で商売を始めるか、会社に雇ってもらうか
→ 工業化に伴い、経済の拠点が家から企業に移っていくことで、家長の力が実質的に減っていった
2 章 : 家族はいまどこにいるか
1 節 : 男は仕事、女は家庭
前章で見たように、家から自由になりたいと考える人も多く、また、工業化により企業に雇われる男性が増えていった 女性も家から解放されたいと考えていたが、企業で雇われ続ける人は少数だった
「家からの個人の離脱」 は、離脱した先の家族生活で性別分業や男性支配を伴っていた
それまで結婚後も 「家」 のなかで生産活動に携わってきた既婚女性は、近代化が進むにつれて家事や育児に専念 → 家族の金銭収入に関わる活動からは撤退 近代家族 : 親の家から経済的に自立し、夫は外で労働、女性は家事や育児に専念 なぜ男性支配が続いたのか?
政治的理由 : もともと家が経済拠点だったときに家父長制があり、経済拠点が企業に移っても男性優位 → 「家も会社も男の物だ」 というような意識? 経済的理由 : 通勤が発生するようになり、女性も労働を続ける場合家を長時間空けることになる → 子どもが居ると難しく、稼ぎがあれば女中を雇うなどもありだが、ほとんどの家庭では女性が仕事を辞める方が経済合理性があった こうして女性は有償労働 (お金を稼ぐという意味での労働) から撤退する これが極端にまで進んだのは、近代化 (モダニゼーション) の結果
この性別分業は、欧米においては第二次世界大戦後の 1950 〜 1960 年代、日本では 1970 年代にピーク 2 節 : 「お見合い結婚」 の不思議
伝統的なアレンジ婚では、出会いも決定も親が行う
近代的には、出会いも決定も当人が行う
他に、「出会いを親が準備するが、決めるのは当人」 (現代での 「見合い婚」) と 「当人たちで出会って親の承認を得る」 というものもある
3 節 : 男性からの離脱
親は息子の結婚と娘の結婚のどちらに口を出しやすいか? → 娘
女性の結婚後の幸福は相手の男性にかかっている、という認識が親にあるためと思われる
著者が考える、社会としてのさしあたりの目標 : 男性も女性も経済的に困窮せず、その上で自由に結婚したりしなかったりするような社会 → リベラル派の理想の親密性 親密性 : 家族、友人関係、恋愛関係、同棲などを含む広い概念 4 節 : 自由な親密性のための 3 つの課題
「『家』 から男性が、ついで女性が自立して、自由になった」 という変化のとらえ方はシンプルでわかりやすいため、この筋書き (個人化) で結婚と家族の成り行きをとらえる人たちも多い しかし、実際にはそうならなかった
人々が「男性のみならず女性も雇用を通じて経済的に自立して、自由に人間関係を作る」ためには、安定した雇用が男女に行き渡っていること、家事や育児のサービスがなんらかのかたちで提供されていること、そして高齢者が少なく、それを支えるコストが小さいこと、この三つの条件が必要です。
3 章 : 「家事分担」 はもう古い?
1 節 : 「家事分担」 問題
「家族による心のケア」 なども入れてもよいかも
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仕事というのは、職場でも家でも、かように役割意識やアイデンティティに絡むものなのです。社会学は、経済学的な効率性で説明できないこのような労働の側面をとらえるのが上手です。
ケア労働の意味を広くとって、家事もそこに含まれると考えることもある Yellow highlight | Location: 1,336
所得格差です。具体的には、使用人やケア・ワーカーを個人的に雇うことができる人たちと、雇われる人たちのあいだの所得格差です。この格差が大きいところでは、そこそこ裕福な家庭であれば使用人を雇うことができます。
3 節 家事労働はこれからどうなるか
家事や育児のサービスを獲得する方法について、そのサービスを誰から受けるか、という広い観点が必要
家事分担や育児分担は問題の一部に過ぎない
大雑把に言うと、ケア・サービスの入手先は、「家族や親族」、「民間セクター」、「公的セクター」 の 3 つ
公的機関による提供
日本でも、保育や介護においては部分的にこのような仕組みを作り上げている 4 章 : 「男女平等家族」 がもたらすもの
1 節 : 「平等な夫婦」 は目標になりうるか?
若者の自立について
アメリカのミレニアル世代は、自立志向の強かった前の世代と違い、自立せずにいつまでも親元に住み続けているよう 背景に経済の不調
前近代のヨーロッパ社会でも、経済的な不調が若者の独立・結婚 (家族形成) を遅らせることがあった模様
結婚・出産が当たり前な世界こそが特殊である可能性
近代の家族でも、家族の周辺の経済的条件に結婚・出産が左右される
より大きなコミュニティ (北欧では国) がリスクを緩和する制度を作ることができれば、その限りではない
北欧社会は寛容な社会保障があり、若者と親の同居率が低い
欧米社会では、結婚しないまま子どもを作り、そのまま育てているカップルが数多く存在
2008 年時点の日本の婚外子の割合は 2.1 %
アメリカでは生まれてくる子どもの 40.6 %、フランスでは 52.6 %、スウェーデンでは 54.7 % が、出生時に親が結婚していない子ども
共働きが多く、ケアサービスも提供される社会は出生力もそこそこ高い
2 節 家庭が (再び) 仕事場に?
3 節 共働き社会がもたらす格差
4 節 家族による格差にどう対応するか
仮に完全にワーク・ライフ・バランスが実現してしまうと、女性の就労を阻む壁はもはや存在せず、同類婚の共働き社会が促される → 格差の拡大、(所得の低い者がパートナーを得られず) 出生率の低下
個々人の決定が社会にとって望ましいとは限らない
結果として生まれる格差をどこかで是正する必要 → アソータティブ・メイティングしても儲からないような仕組みを考える
日本では税制に関する議論は 「控除」 に関するものが中心になっている それと並んで重要なのが 「課税単位」 の問題
個人所得に課税するか、世帯所得に課税するか
特にワーク・ライフ・バランス制度が整ってきた場合、高所得者は同等の高所得者と結婚することが合理的 合算非分割方式 : 世帯の人数にかかわらず単純に世帯所得に課税する 所得格差の是正ができるが、副作用が大きい
そこそこ所得がある人同士の結婚により高率課税が発生 → 結婚が減ったり、女性が就労を抑制することになる
合算分割方式 : 世帯所得を世帯の人数 (あるいはそれに近い数値) で割って、それぞれに課税する 高所得の男性は結婚することで節税できる
対等な所得の男女が結婚する分には、結婚後も結婚前も平均した所得に変化がないため、結婚を阻害しない
子どもも世帯人数に数える場合 (フランスでもそう)、子どもが多ければ多いほど一人あたりの平均所得は小さくなり、課税額も少なくなる
対等な共働きを強く促すことはない
個人単位課税に配偶者控除を付加した日本の税制も同様
出生促進という要素も加えて、3 つの税制を筆者が評価したもの https://gyazo.com/1f69aefc15f9a86897f652110b630bcb
出生率が高く、世帯の経済格差が小さく、女性もよく稼いでいる社会がよい社会だと仮定して、非分割方式、分割方式、個人単位課税という三つの税制の優劣を考えている
日本での事例
それから 1950 年より前までは非分割の世帯単位課税だった
家が経済活動の拠点であった時代には世帯単位課税が一般的
1950 年から個人単位課税に変わる
個人単位課税への切替え後に吹き出した自営業家族の不満を受けて、政府は 「専従者控除」 を導入 (1952 年)
実質的に分割方式に近い税率を自営業者が受けられるように
今度は、サラリーマン男性の片働き世帯が 「自営業は (実質的に) 妻に所得を帰属させて税率を低くできるのに、なんで我々はできないのだ」 という不満を持つ → こうして 1961 年に 「配偶者控除」 が導入され、それが拡充されつついまに至る 純粋な個人単位課税に本来備わった機能である、対等な共働きを促進する働きを弱めるもの
もともとはすでにみたように、自営業家族と比べたときの専業主婦家庭の不利を緩和するために導入されたもので、共働き社会に対応した税制ではない
共働き社会化を促す目的で、現在は廃止が検討されている
こういった議論でともすれば忘れ去られているのが、アソータティブ・メイティングによる世帯間所得格差の拡大
世帯間所得格差の縮小には、個人単位課税も分割方式 (そして配偶者控除方式) もそれほど力を発揮しない
対等な共働き夫婦を促進したいのなら、何も考えずに個人単位課税を純化すればよいが、そこに落とし穴がある
先進諸国では、非分割方式の世帯単位課税から分割方式か個人単位課税への移行が一般的な流れ
経済構造が 「家経済」 → 男性稼ぎ手雇用 → 男女共働き雇用社会、と変化したことを反映した制度変更
イギリスと日本は個人単位課税
アメリカとドイツは分割方式と個人単位課税を選択できる
税制によって家族のあり方がすべて決まっているわけではない 税制以外の外的な条件の影響も大きい
5 章 : 「家族」 のみらいのかたち
第 1 節 : 家族と仕事のリスク・マネジメント
ケアの心配から解放されているので、一人で生きていける
自由に付き合う相手を選ぶことができる。 短い期間付き合って別れるのも自由だし、一対一の関係にするかどうかも自由
想像しづらい世界だが、「家族のみらい」 を考えるためにさらに考察を深める必要
なぜなら、食べていくことから自由になったとしても、「感情」 により自由な状態にならない可能性がある
これまで、私たちは他人と関係を持つことにおいて、常に 「食べていくこと」 という条件に縛られてきた
親密性が経済・生産の論理から独立するのは、仕事と家庭の分離による
「男性稼ぎ手 + 専業主婦」 の家族では、女性は男性に経済的に依存し、男性は家族を養う重責を担う
女性も有償労働に戻り、経済的に自立すると、その基盤で男女ともに自由な人間関係を楽しめるか? → 否
経済の不調による雇用の不安定化
無償労働 (家事やケアのサービス) をどうするのか、という問題
少子高齢化による国全体の経済的余裕の減少 → 自由な親密性のための経済的基盤が失われる 情緒的に満足を得られなくなった夫婦関係から人々が自由に離脱することもできなくなる
シングルで生きていきたい人、シングルのまま子どもを育てたい人なども、自己防衛の手段として家族を作る必要性
共働きカップルを優遇する政策は、(本来の目標であるべき) 自由な親密性の実現を損ねうる
配偶者控除 (稼ぎの少ない方が収入を調整する必要がある) ではなく、夫婦控除が検討されていたりする 夫婦控除は、特定の形の親密性 (夫婦) を優遇するもので、ライフスタイルに中立ではない
家族をセイフティ・ネットとせざるをえないような社会 = 家族がリスクになる社会
「家庭の職場化」 の話にあったように、家庭と仕事の両立を目指す共働きカップルにとって家族生活が安らぎの場ではなくなっている
アメリカのような自己責任社会では、家族も仕事同様に、それなりに体力と精神力を使ってマネジメントしていく必要
共働き社会が本格的に進めば、夫と妻は、共同経営者として夫と妻それぞれの仕事と夫婦にとっての家庭の 3 部門が全てうまくいくように調整する必要がある → それは困難で何かが破綻する
仕事が家庭のリスクになり、家庭が仕事のリスクになり、どちらもが人生のリスクになる。 不自由な親密性の世界
リスクを軽減するためには、仕事 (民間経済) でも家族でもない第三の領域 (政府あるいは非営利組織の領域) がそれらをバックアップする必要
「伝統的な家族の価値観を大事に」 という主張もあるが、この状況ではむしろ 「家族主義からの離脱」 が大事
家族が最後のセイフティ・ネットになるような社会では、家族が失敗したときのリスクが大きくなる → 安定した家族を形成できる見込みがない限り、人々は家族形成、つまり結婚を引き延ばす 逆に家族の負担を減らすことで、進んで家族を形成できる (家族の良いところだけを楽しめるような社会を目指すべき)
現代の日本が男女一対の共働き世帯を念頭に政策を実行するのはある程度仕方がない
歪んだ人口構成の問題を緩和するためには、そのようなジェンダー家族を実現したい人が安心してそうできるようにすることが、最初の現実的な手段
ただ、そういう家族ばかりを優遇する必要はない
家族を気軽に作れる社会 (気軽に結婚し、気軽に子どもを作ることができる社会)、気軽に家族を作って上手くいかなくなってしまったとしても、それほど困らない社会を目指すべき
「家族で失敗できない」 というプレッシャーがあると、人々は家族から逃避する
「母・子・それをとりまく周囲からのサポート」 という単位からなる社会と、それ以降の 「父・母・子」 の家族からなる社会の対比
家父長制が浸透する前も後も、日本では子どもを産む女性の身近なサポートをするのは周囲の女性だった 家長の男性は、家全体の経済的な運営の役割を担っていた / その影で女性たちは独自のサポート・ネットワークを構築していた
そのようなサポートにより自由な親密性を実現できていたわけではない (逆にそのコミュニティに埋め込まれている必要)
社会からのサポートは、もっと形式的で、かつ広い範囲のものである必要がある
そのような社会はどう実現されるか?
ある程度安定した雇用が十分に供給されている
それにより豊富な公的資金が得られること
それによる財政的余裕を、人々が仕事をしたり家族を作ったりすることのリスクを減らす方向に使うこと
失敗してもやり直せる環境が、気軽に一歩を踏み出させる
第 2 節 : カップル関係は変わるのか?
雇用や家事・ケア労働などの制約条件に縛られず、自由な恋愛・結婚が増えるとすれば具体的にどのようなものになるか?
自由な親密性は完全には実現できていないかもしれないが、かつての家父長的な家族にはなかった恋愛が広がっている 私たちが典型的に思い描く恋愛関係の特徴
純粋性 : 恋愛関係が関係それ自体から得られる情緒的な満足によってのみ取り結ばれる、ということを意味する
つまり、現代的な恋愛関係は 「純粋な関係性」
このような関係が可能になったのは、雇用労働が 「家」 から個人を解放したから
自立した経済力を基盤として、人々は多かれ少なかれ自由な結合をする
純粋な恋愛によりランダム・マッチングが促される可能性はあるが、一方で同類婚が求められる可能性もある
「一緒にいて楽しい」 相手は、同じような社会階層の人である可能性が高い
何がその人にとって 「純粋」 に楽しいかという感情は、その実、育った家庭環境によってかたち作られる
「一人の人と恋に落ちて、その人と結婚し、一生添い遂げる」 という生き方
恋人をとっかえひっかえしている人でもロマンティック・ラブを理想とする場合はある
今後はアド・ホックな付き合いが増えるのか?
アメリカでは、同棲の増加と離婚の増加が一定は連動している
なぜ我々は相手を変えるのか?
現在の関係に不満を持っているからだと思われる
つまり、相性が良ければ長続きするはず
長期的関係を築くことができる相手を求めて短い関係を繰り返していると考える
nobuoka.icon 多くの相手と交配したい、という欲求の可能性もあるような?
筆者としては、ロマンティック・ラブの価値観が根強いと考えている
ロマンティック・ラブが本格的に壊れるとしたら、それは人々の親密性の中心が、カップルからカップル外での社会的ネットワークに移るとき 現在の先進各国の家族・雇用政策は多かれ少なかれカップルを想定
各国が 「脱カップル化」 をどこまで想定するのかは、私たちがどこまでロマンティック・ラブの理想を追求しなくなるのか、ということにもかかっている 究極のロマンティックな関係とは?
恋愛関係 (結婚も) には、基本的には 「排他性」 という特徴がある
恋愛は排他的であるべきという規範はゆるんでそうにも思えるが、浮気などが隠されたりメディアを賑わせるのはそのような規範が強いからに他ならない
アメリカの不貞についての社会学的研究では、不貞について主に 3 つの要因が検討されている 不貞に対して寛容な個人的価値観 (不貞に寛容であるほど実際に不貞をする傾向がある)
不貞の機会 (恋愛対象になる人との出会いや接触が多いほど不貞の可能性が高くなる)
そしてパートナーとの関係 (パートナー関係に不満がある人ほど不貞をする傾向がある) 性的関係をパートナーとのあいだに限るということが、その人との 「愛」 の証として考えられている
他の人には与えない貴重な何かをその人――あるいはごく少数の人――に〈だけ〉与えることが、その関係に大きな情緒的満足感を与える
3 節 「公平な親密性」 は可能か
私たちの生活が 「カップル」 と子どもという特定の親密性のかたちにこれほど依存するようになったのは、特に近代化以降 近代化以前は、カップル関係は緩やかな親類関係や地域ネットワークに溶け込んでいた
「感情」 についてもあてはまる
夫が妻に、妻が夫に感情的な愛着を示すようになるのは、家族が 「家」 から分離した近代社会において それ以前は、夫も妻もそれぞれ、性別ごとに分離した周囲の人間関係に情緒的つながりを見出していた
20 世紀は経済や政治の分野で平等と公平の理念が浸透
公的領域における公正性や効率性の原理とは相性が悪い
ケア・ワーカーのように心の状態に配慮が求められる仕事も同様で、「パーソナルに、しかし特別扱いしない」 ことが求められる この 「パーソナルさ」 は、「特別扱い」 と並ぶ親密性のもうひとつの特徴 「パーソナルな対応をする」 とは、その人に固有の事情を配慮する、ということ
パーソナルな対応と特別扱いは別物
あてにできる長期的なパーソナル関係というと、やはりカップル
公的な人間関係では長期的な関係を結ぶことは難しいし、友人も食べていくために遠くに移動したりもする
単純に考えると、付き合う人の数が増えれば増えるほど、誰かが仕事の都合で別の場所に移動してしまう可能性は高くなる → 自分が築き上げたネットワークを自分の都合でそのまま別の場所に運んでいくことはできなくて、可能なのはせいぜい人間関係の最小単位であるカップルぐらい 逆に地理的にあまり移動することがなければ (地元に密着した生活スタイルなど)、カップル関係を重視する度合いは小さくなる
現代的な親密性のかたちとして 「脱カップル化」 が進むかどうかは、ひとつには移動の機会を抑制できるかどうか、地元で暮らしていけるほど地元に雇用を確保できるかどうかにかかっている 結婚すること、家族を持つことが誰でもできるわけではない社会
そこから得られるであろう幸せを得られるかどうかの不平等が生じる
政府が介入して福祉の充実、経済的な条件をそろえることで親密性から得られる幸福もある程度平等化できる
とはいえ親密性の原理は政治の公平性原理や経済の効率性原理とは相性が悪いので、幸せの公平性の追求は難しい
あとがき
前近代社会では、特別扱いの論理が社会全体を覆っていた (国の政治も、王家という家の私的経営の一環だった)
近代化にともない、社会全域に広がった私的世界のなかに、公正さの論理が部分的に広がっていった
私的世界は徐々に 「公正さの侵食」 を受けた
きっかけ
効率性を重視して特別扱いを排除する市場経済の発達
公正さをそれ自体の理想として掲げる近代的政府の成立
効率性と公正性は矛盾することもあるが、効率性には差別を排除する力があったのも事実
こうした動きが先進国ではじまって 200 年ほどたつが、特別扱いの論理は少なくとも 2 つの領域で残っている
国際社会の領域
結婚や家族の領域
やっかいなのは、「家族愛」 「愛国」 という感情が、多かれ少なかれ 「特別扱い」 によって生じるということ 誰かを愛して誰かを愛さないということは、特に理由もなく愛する誰かを特別に扱い、愛さない人を同じように扱わないということを意味する
このことが人に無上の感情的幸福をもたらすし、やりきれない不公平感を生じさせもする
公私の二元論の批判には、リベラリズムが等閑視してきた私的領域に残される女性差別を糾弾する、という意図があった 筆者は 「公私の分離」 にはそれ以上の、もっと根本的な理由があると考える
それが特別扱いの論理
人は男性の特別扱いはやめられても、自分の配偶者や子どもの特別扱いはやめられないかもしれない
公的な世界で基本的なライフ・チャンスを公平にし、家族がなくても生存できるような社会を作りあげることができれば、感情の不公正が生存の不公正に結びつくような前近代的な状況は緩和されると思われる
当面、私たちはここを目指すべき
私的領域に公正さを徹底させることは非現実的
そのあとは、現在の日本にとっておそらく最大の課題である少子高齢化問題に多くの時間を割いて研究 成果の一部は、『仕事と家族』 (中央公論新社、2015 年) として発表 かつては家族の領域こそ仕事の場であったが、やがて家族と仕事が分離し、そしていま再び境界線が曖昧になりつつある
この大きな流れを描いたのが本書